和歌山毒カレー事件とカフカの審判

このブログでは基本的に時事的な事柄を取り上げない。理由は一過性の話題になりやすいからだ。しかし、和歌山毒カレー事件の最高裁判決が出たと知り、それが死刑判決だと知るに及び、一種の気持ちの悪さを感じたため、ここに書き記すことにした。この気持ちの悪さがなんなのか、最初は自分でも分からず、しばらく考えてみた。考えた結果、カフカの審判を読み終えたときの気持ちの悪さと同じだと思い至った。

カフカの審判では主人公のヨーゼフ・Kが何の理由だか不明のまま逮捕され、裁判が行われたのか、そうでないのか判然としないまま、判決が下され(実はそれすらも不明だ)、犬のように殺されるというものだ。そこには理由も動機も裁判も判決も何もない。何もないが、主人公の死というものが最後に突きつけられる。主人公はその場その場に応じて、最善の方法をとろうと努力するが、それが本当に最善の方法なのか、全く見当違いなのか、それすらも分からない。この自分が自分でないかのような感覚、考えていることが考えていないかのような感覚、居場所が居場所でないような感覚、そういった曖昧で不確実な感覚が、気持ちの悪さを与えているのだ。

同じようにこの和歌山毒カレー事件もまた、動機も分からない、決定的な証拠もない、何も分からないまま、死刑判決が下される。私はここに不条理な文学的側面を見たのだろう。それがブログにこの事件を取り上げた理由だ。カフカの審判(1914年)が世に著されてから百年がたとうとしている。不条理文学の世界が現実のものになろうとしているのかと思われる。無論すでに、カフカの城における官僚主義に至っては、とうの昔から現実のものになっている。

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このページは、ちんみが2009年4月22日 21:26に書いたブログ記事です。

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